沿 革

真宗(しんしゅう)高田派(たかだは)南園山(なんえんざん)(じょう)泉寺(せんじ) 本山(ほんざん) 三重県津市一身田 専修寺(せんじゅじ)

  

 開基(かいき) 浄専(じょうせん)

 長禄(ちょうろく)三年卯月(1459年)浄専(じょうせん)上人(しょうにん)がこの地に一宇(いちう)建立(こんりゅう)した始まる。のち宝暦(ほうれき)三年三月五日第十一(しゅん)(えい)再建(さいこん)した。明治二十六年第十七世(しゅん)(ずい)は当寺境外(けいがい)に所有する私有地を、寺に寄贈(現境内地(けいだいち))し本堂を建立した。

 山号(さんごう)寺号(じごう)(いわ)れにつき語り伝えられるところに依れば、昔樫山(かしやま)一帯の地は(その)(ばやし)と呼ばれていた。

ある時、僧行基(ぎょうき)がこの地に来たり、非常に美しい清水の湧き出ている(当寺の西方百米、(おと)(がわ)の辺りのを見て「この地は佛法(ぶつぽう)(ひろ)まるところ」と足を止め、自ら地蔵(じぞう)(そん)一体(いったい)を彫んで、(こう)(せん)(あん)なる(いおり)を建て奉安(ほうあん)した。(しこう)して佛の心が里人に伝わり栄えた。(しか)るに火災の為、焼失してしまったが、その際、男川を隔てた、現在新居(あらい)()と称する地に、南園山(なんえんざん)と称する天台宗(てんだいしゅう)一寺(いちじ)あり、焼失したと思われた地蔵尊は本堂壇(に在していたと云う。人々は驚き且つぎょうを厚くしたという。

 時は経て、浄専の時代となった。その頃、(しん)()上人(しょうにん)この地を化錫せられ法師深くその(とく)()、寺号を、法名(ほうみょう)の浄専の一字を香泉庵の泉の一字と入れ替え(じょう)(せん)()としたといわれる。現在、樫山に清水(しみず)河瀬(こうぜ)の地名が存在している。これおそらくは行基の清水の謂れと、香泉庵の発音が残ったものではないかと云われている。地蔵尊は明治までは十七年一度御開帳(ごかいちょう)が行われ近郷近在からの参詣(さんけい)(しゃ)(にぎ)わったという。

(当山第十八世住職戸田(とだ)大安(だいあん)記す)

 

寺宝(じほう) 

西方(せいほう)極楽(ごくらく)世界(せかい)大曼荼羅(だいまんだら)(観経曼荼羅)一幅

・無量寿経曼荼羅 一幅  

釋尊入(しゃくそんにゅう)涅槃図(ねはんず) 一幅  

十王傳(じゅうおうでん) 十幅

 

親鸞(しんらん)聖人御絵傳(しょうにんごえでん) 四幅  

・地蔵尊  ・その他